2008.10.01~12.31日記

2008年12月31日 演歌NHK 

2008.12.31

 今2030 やっと演歌らしき歌がはじまった。

  ここ40年間NHK番組の紅白歌合戦見ていない、聴いていない、演歌ばかりと毛嫌いしていたのだ。実は細君の愛する演歌に逃げ出す毎日、三味線と唄の民謡やるくせに。

 随分前から毎日、FEN、今AFNを聴く、Tempoの早いMusicも。今、驚いた、NHKもやるなあと、先入観とりこの俺が。

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2008年10月30日 IfugaoのTaboo、近親の間では刺激的な性的行動や言動はできないとか

2008.08.30

 IfugaoTabooについてNativeは書く。

可なり沢山のTabooがある。いくつか重要なものをあげると、

1 結婚が禁じられている同族の男女のいるところで、女性の胸や腰をじっと見ること、未婚の人達の共同寝室に向かって語ること、風の音より大きな声で恋愛ごとを語ること、性や体の部分に繋がることを語ること、はそこにいる親戚へのゆゆしき侮辱である、それらはTabooであるから。

2 意識的に結婚している女性の体に触れることは禁じられている。叉結婚している女性が1人でいる家に入ってはならない。

3 債務者の家族に誰か病気の人がいるとき、或いは死亡があったり抑留の直後に、債権者は債務を取り立ててはならない。

4 Pentecostのお祭りのように収穫の前後の休息期間に部落に入ることは禁じられている。聖職が大麦を刈ることにより収穫を公式に始め、熟した大麦の最初の収穫が神に奉納される。Ifugao も同じように、その日に最初の4束を収穫の神に捧げる。その後収穫が始まる。この日は“Tonah”の“Hanglag”の日である。米の2つのPanicle”Tonah”が供えられ、後ほど、収穫の神に捧げられる上述の4つの束を供するTonah儀式がある。そして、収穫の終わった後の日は休息日である。

5 子どもや婦人を殺すことはTabooである。ある人を殺そうと機を窺っている敵はその人が子どもや婦人とともにいる時は別の日に伸ばさなければならない。

6 妊婦を不愉快にすることはTabooである。或いは何か欲しがる子どもといる時妊婦を不愉快にさせてはならない、何もない場合はどんな些細なものでも構わない何か与えること。

7 近親の結婚は禁じられている。第4(等親)か第5(等親)のいとこのみとできる。もしできるなら親戚と結婚することは慎むこと、なぜなら悪い結果を起こすから。

8 ある日が休日と宣言されたら、その地域に入るな、或いは田畑を散歩するな。沢山のTabooがある、その日は“Hanglag”と呼ばれる儀式で神官が神に捧げるために2つのPanicleが刈られ家に持ち帰られるときである、その日は“Kitob”と呼ばれる。これは“Baki”とか“BaI”と呼ばれるIfugao信仰の祭壇である“Punamhan”で、神官が米の2つのPanicleを輪にする日である。その日は誰も仕事しないで、唯、家にとどまる。他の場所からの人は誰もその地域に入らない、Tabooだから。

その他の宣言された休日は全ての者が米の収穫を終えた後の休日である。

休日については、米収穫開始前の3日間が休日で休日2日目の724日だったMaligcongで経験した。乗ってきたJeepneyの運転手から、本日は休日、部落に入るな、棚田のみ歩ってこいと言われ、忠実に守った。しかし村から離れてぽつんとある小学校は開かれており授業風景をDigicameした。それからぽつんと離れた1軒家のオヤジは大歓迎、砂糖キビで造った酒を飲めとすすめて呉れた。

 叉、突然とっぴな民族学的好奇心が湧き、何処の世界でも話題にすることはよいことではないがと前口上気兼ねしながら、性生活について親しくなったMongの既婚子持ち婦人に尋ねたものだ、どの位の頻度でと。相手は恥じらい無言、とびっきり非常識な質問、思い出し悔やまれる。

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2008年10月23日  Ifugaoの儀式行事(婚約)、豚がふるまわれる

2008.10.23

 Ifugaoの儀式行事(婚約)について

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 Nativeの本に書いてある。

Parental Marrigeがある、これはまだ幼ないころ親同士が決めるという特殊なやり方だ。

Courtshipが通常のやり方だ。結婚したいときは男が欲しい女性に言い寄り、愛している、結婚したいと告げる。女性が受け入れば、男性は結婚したいと親に話す。男性の家族全員が相応しいかどうか話し合い、認めれば、信頼している近所の人に頼み、家族の全員がいる早朝に女の家へ行ってもらう。仲人は男性本人の代わりになって話す。女性の家族に異存なければ婚約がきまり、Momaを持ってくる日取りを決める、仲人は戻り男性の家族に結果を話す、男性側にも依存なければ男性の親はMomaを準備する、生きた豚1匹若しくは屠殺された豚肉、米1籠(Hoop)、塩4ChupasBetel Nuts、二束の(Hapid)、 “Matagu゛として4から8羽の地鶏、そして仲人に一羽の鶏。婚約が親戚や近所に知らせる。

決められた日の朝、仲人は米籠にすえられた肉・塩・Betel Nutsと鶏・豚を女性の家へ持って行く。そこでは親戚や隣人がMomaを待っている。

Mataguは女性の父親と母親の親戚が貰う。生きた動物は両家族の親戚のPartyに均等に分けられる。豚が屠殺され出席する全員に均等に与え、そこで食べる人のために残されたものを料理する。塩は誰でも得られ、Betel Nutは咬まれ、そして解散する。

714日夜Cambuloにいた。昼間、南を向いても太陽ない。ぽつぽつあるSolar Panelは少し南を向いているとはいえのけぞっている。そして我らの道はない、あるのは畦や軒先道だ、自転車、Bikeはない。太陽が上がれば起き、太陽が沈めば寝る人たち、豚や鶏と生活を共にする人たち。朝は野菜の味付けとご飯、昼は野菜の味付けとご飯、夜は野菜の味付けとご飯。たまたま婚約で豚が殺され部落の人にふるまわれる場面に出会わした。男性の親戚が村で一番大きな豚60kgを寄せたとのこと。途中からなので進行具合は判らなかった。夜11時に豚の会食がある、何かGift持参で参加しないかとさそい。一旦休み、11時ごろ起きだし会場に行った。多くの人が待つ、肉が板の上でこきざみにされ、そのまな板を犬があさる。薪を焚き大きな鍋で煮られているところだった。しばらく待ったが更に1時間後になるといわれ、参加を断念した。

翌日の朝食時、壁に貼られた写真を見た、まさしくかってその場面を経験した人のものだった。次はそのCopyである。叉、後々、SapaVietnam)ハニ族村で豚の処理現場に接し、生々しい一部始終を記録した、そこではお湯につけて毛を剥がしていたが。

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2008年10月22日 Ifugao の灌漑権

2008.10.22

今日はIfugaoの灌漑権について約しよう。

灌漑は必要不可欠である。とても難しい仕事だが辛抱強く灌漑施設を築く。Ifugaoは必要なら岩場に石壁水路をつくり水源から自分の田んぼに水を引く。このようにして水不足が解決される。

水が供給されている田んぼの所有者は誰も水路の建設に従事しなければならない。働いた人と同等の権利をうる前に、従事しないにしても建設期間の1人の労働相等全費用を払わない限り灌漑施設からの水を共有できない。払ったり、働いたり、代わりに働く人を雇ったりする全ての者が水を受ける権利がある。水利を受ける新しく作られた田んぼの所有者は水の使用料を払ったり、水路の維持管理に協力しなければならないし、水が不足したときは他の人の田んぼに行く水を妨害しないようにしなければならない。

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 誰の土地でもない、誰も所有しないところに見つけられた湧き水は誰もまだ使用していない限り下の田んぼに導いてよい。その他の場所も湧き水を使用できる、が、下の田んぼの所有者が権利を持ち、自分の田んぼに必要な全量を受給できる。湧き水を使用してきた下の田んぼは水の使用を奪われてはならない、他の場所に移してはならない。水の最初の使用者は新参者より使用する優先権がある。隣の所有者は水を受けられるが下の田んぼにに行く水を妨害できない。最初の使用者から水を奪うことは違法である。

 個人の田んぼからでる湧き水は湧き出る田んぼの所有者に属する。田んぼの所有者はその水を使用する全権を持つ。その水の一部を自分の他の田んぼにPipeで引ける。他の人はその水をPipeで引けない、違法であるから。他の田んぼに流れ落ちるものは所有者として永遠の使用者である、が、上の田んぼから水抜きはできない、違法であるから、特に水が不足する夏場は。故意に水路の水をつぶしたり放りだそうとするものは違反者である、罰金か死刑の処罰を受ける。自分の田んぼに供給するため水路から水を流用するのは違法である。水の使用者として資格をうるには水路建設全期間の1人分の賃金相当額を払うよう強制されるだろう。水路建設に参加すべきだった、或いは水路建設が終わるまで自分の代わりに働く人を雇うべきだったのだ。

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2008年10月19日  日本のBanaue占領、町に火をつけた、降伏

2008.10.19

 日本の Banaue占領について。

 

 Philippinesの島でかって戦った船橋の85才老日本兵は言う。国がかりでLogistics不要とした日本、全てを現地調達。米軍が上陸する時、事前偵察艇、気のはやる日本兵が発砲、日本兵の居場所判り沿岸の艦砲射撃。叉背後では密かに山奥に残っていた米軍が挟み討ちした。負けるべきして負けたと。

 我われは713日夜、BatadInnに泊った。そこの主人は学校の先生、言ったものだ、「この辺りには来なかったがこの上の山の尾根には日本軍がいた。Spainは何も残さない、Americaは教会・英語・民主主義を、日本はOrphanのみ残した」と。

California  Allanいう、降伏した日本人は山下のみだと。

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 Nativeを読んでみよう。第Ⅱ次世界戦争が起こった。日本空軍がBuildingや家を爆撃したが一発も家にあたらなかた。飛んでくる爆弾の破片でたった2人の若い少年が死んだのみである。爆撃の数日後日本帝国陸軍がやってきてSister’convenと故Epifano Candelarioの家以外全てのBuildingに火をつけた。全ての家は灰燼に帰した、Catholic Churchも例外ではない。選挙で選ばれ当時市長していたAndrian Apilis Sr.は火付けを避けるよう努力したが投獄されそうになり逃亡し、山のCampにあるAmerica-Filipino Guerrillaに参加した。

現在市の施設があるところに日本軍が駐屯した。日本人の要求を伝達できる人がいなくなったのでBayninanJulio Duntuganを市長として任命した。道具の市長は人々が避難から家に戻るよう呼びかけた。日本人は仕事を再開するよう命じ、学校の再開を命じた、そこでは日本語とともに日本思想を教えようとした。

Julio Duntugan1942年から1945年の開放まで日本人のもとで市長として仕えた。

特に1943年は平穏であった。Guerillaは攻撃しなかった、Guerilla運動を組織したり強化したりで忙しかったのだ。全ての体のよい若者はGuerillaに入らせられ、訓練された。Ifugaoの殆ど全てのものが米軍USAFIP第11歩兵連隊のもとのGuerilla Memberであった。訓練されたIfugao Alpha 中隊とCharie中隊に配属された。

194411月米潜水艦が幾ばくかの米国人将校やFilipinoRadio通信士と2025tonsを供給した。後に25tonsの追加があった。北Luzon島の米軍USAFIPは攻撃準備ができMc Arthur軍が北Luzonに上陸する道を開く体制ができた。1944年の終わりに4つの中隊がBanaueの日本軍を攻撃し駐屯軍を壊滅させた。次なるKianganも壊滅させた。その後Lipantoをとおり山岳に来る日本兵に対していた中隊が再びBanaueに呼び戻された。しかしBontocNueva Viscaya からおびただしい日本兵が来てBanaueの焼け地に再び駐屯地を構築した。1945年1月の初め米軍はLingayenPangasinanに上陸。低地にいる日本軍はIfugaoへ押された。日本軍はThe Tiger of Malaya,山下将軍が最後の砦としたNapulawan山のHungduanへ退却した。第11と第14歩兵連隊は日本軍を掃討し押しやり、米軍はIfugaoをたやすく開放することができた。山下将軍はFilipino Arm forcesに降参するのを嫌い、米軍を待ち1945年9月2日頃最後の砦現在のHungduan市を離れKianganへ移りそこで米軍に降伏した。

これが第Ⅱ次世界戦争の終わりだった、Ifugaoが遂に開放されたから。

第Ⅱ次世界戦争は人人の生活の中で最も暗いEpisodeであった。それはIbannowarが経験した最も悲しいEclipseであたった。愛する人を失い、餓えや病気、そして全ての人の生命が絶えかけていた、家なしになった。そして全ての財産は破壊され戦争の被害から回復するには時間がかかった。

日本人は市長に命じて小学校をSister’ conventで開かせ、人々に仕事を再開させた、その結果、戦前は日曜日だったのが今まで続く土曜日がMarket Dayになった。

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2008年10月15日  IfugaoのNative House

2008.10.15

  Ifgaoの続き、Native Houseについて。

 棚田の端っこや村中に独特のHouseがポツンポツンと見られた。米の貯蔵庫だろうと思っていた。が、住処にもなっている。どんなものか要約してみる。

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 読み書きできない人達が自分たちの森から得られた4本の硬い木の柱を使って一部屋の家を建てる。一部屋を居間・台所・寝室として使う。Houseの部分はほぞとほぞ穴で互いに接続されている。上部は棒とチガヤで作られたPyramidのような形の屋根とともに藤でしっかりと垂木を支えている。屋根裏は米の貯蔵に使われ、火を焚く上には薪が置かれている。親戚の人や隣人が手伝い、家を解体し、他所へ移動し、その日のうちに再び建てることができる。それはPrehab建築のようなものだ。釘を使わないで建てるが、古い時代から現在まで台風で吹き飛ばされたこともないし地震で倒壊したこともない。家が斜面を滑り落ちる場合がある、それは建てられている地盤が侵食されたときにのみである。しかしこれは不可避なことである、地殻と傾斜している棚田あるいは地形に落ち度があるからだ。

 子どもの誰でもそのHouseを住処として貰える。もし新たに結婚した息子や娘がそこに住みたいといったら親は他のHouseに移る。

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2008年10月9日 大山千枚田へ

2008.10.9

9:45 JR市川駅1,820円発

10:09 外房線千葉駅発

12:10 鴨川駅着。 日東バスの東京湾フェリー行きが鴨川東口12:05出たばかり。日東バスの係員の懇切丁寧な説明を受け、目的地は吉尾の次の釜沼バス停、平塚本部までの往復割引乗車券800円購入し次の14:15発を待つ。バス券は片や絵葉書の春田植え夏水はり秋実り冬煙の棚田光景と長狭街道ハイキングバスロードの案内図がつく。駅前通りを探すも営業中の日本そば店なし、駅のコンビニでおにぎりと野菜サンド購入しバス停で昼食。その間、曇りから大体晴れに。

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14:15 鴨川東口発、ガラガラ、14:45 釜沼着。少し戻り大山千枚田の看板を見て右に曲がり、坂道を登る、やがてトンネルを抜けると、棚田の雰囲気、更に登る。15分あまりで案内板ある駐車場着。2台の車おりしきりに感嘆めでちゅう。

棚田倶楽部では貸切の会議中、鴨川市のしおりを貰う、「県内最高峰愛宕山408mHから北西約2kmに位置し標高90~150mの斜面に・・・東西約600mの範囲46077㎡連なっています。江戸時代以前から行われていた・・・。指定名勝内で375枚が耕作されています。保存会はオーナー制度など実施」。

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予備知識ないがこれでは時により旱魃もあるだろうと推測。一つ一つの棚はそれほど小さいというわけではない、落差が大というわけではない。今日は既に稲は刈られ、所々燃やしたあとがあり、脇には保管藁が積まれていた。サギはいなかった。

逆光の中、数コマをShot。早々にひきあげ、帰りバス切符を使わず、JR内房線保田駅に向かうことに。

15:45 東京湾フェリー(ここから久里浜まで35)行きバス発、JR浜金谷駅680円着。

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16:43 内房線浜金谷駅発 17:40 五井駅着、1:40市川駅1620円着

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2008年10月8日  Ifugaoの棚田のつくり方

2008.10・8

今日は棚田に関する著作について触れたい。

日本では「棚田に土塁で固められた土ハ、石積みでできたもの、更には下が石上が土ハでできているものの3通りある。石積みにも石の種類と積み方により違いがある。風化した自然石をそのまま使う野面積、玄翁で適度の大きさに砕石したものを規則的に積み上げる玄翁積み、砕石を不規則に積み上げる崩れ積み、正層積みと乱層積みなどなど。」あると。

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 VanauePhilippines)で手にした本がある。それは1924年生まれのNative Emilio D.Pagadaが書いたもの、表題は“IFUGAO Folkways & Folklores”。それに「棚田はどうやって作られるか」の記述がある。自分なりに以下要約する。

{ 道具や材料は?

(大きい石)の上で焚き火して割れ目をつくり、更に(別の石)でそれを壊し棚田用の石をうる。叉、(硬い木)で掘りやわらかくした(土石)を(水)を使って(積まれた石壁)に流し込む。

最初は住居近くの柔らかい土地の利用だった。木にとってかわり(粗製金属の鍬・こてなど)を使用されるようになると、ゆっくりと長年かけて遠くまで棚田を拡大していった。更に後年の(もっとよい金属製の道具)で古い棚田を改良し広ろげた。

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つくり方は?

 作ろうとする場所に水源があるか確かめる。水源からそこまで水路溝を掘る。これはとても重要、つくる時水が土の運搬媒体となるし、完成したら灌漑水となる。石壁が長持ちするように、つくろうとする場所を基礎石のすわりが強固であると確信するまで掘り下げる。そして、そこに大きな石を据えて基礎としその上に一個一個積み上げる、上になるほどに小さな石を使う。水が漏れないように石の壁の上に粘土を使う。一方、高いところの土地を掘り水で土や石を流し込み積み上げられている石の壁の隙間を埋め石壁をしめる。望ましい高さになったら通常2~3Feetの厚さに粘土を敷く。不必要になった土や石は捨てられるし過剰の土は水で流す。もし斜面が急なら田は全て狭いものとなる。できた田は長短広狭により呼び名が異なる。時の経過につれ、田んぼは刈られた草や残し置かれた藁が朽ちて肥沃になる。 }。

 この記述をどう読むか。真実だろう。では石は何処にあったか。BatadからCambuloPulaへ行く急峻な山道、所々山崩れありそこにはむき出しで岩の砕けたものが大小上から流れているのを目撃した。めくりやすい岩盤でなくとも、川石でなくとも石材はいたる所に豊富にあるものだなあと感じつつ通り過ぎたものだ。近くには整然とした高い石積みが延々と続く。数千年かかり作り上げたものとは言え、遠くで砕石し肩で運んだにしては料が莫大過ぎる。近くで容易に得られたものでできているに違いない。

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